2020-09-08 Tue
こんにちは、または、こんばんは。来てくださってありがとうございます。
6日にアルフォンス・デーケン先生が亡くなられました。
息子がネットの記事をアップしているのを見て知り、
新聞記事を探しました。

死への準備教育の本がどこかにあったはず、と思いながら見つけられなかったので、
直近に読んだグリーフケアの本をめくってみました。
デーケン先生のあとがきに、聖書からの引用があり、何度も読んだ文章でありながら、
再度また胸にしみました。
>天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
>生まるるに時があり、死ぬるに時があり、・・・
>泣くに時があり、笑うに時があり、・・・
今は、泣く時なのかな、笑う時なのかな。
両親の遺品を片付けて、いよいよ実家を手放す日が迫ってきて、
揉め事の相手だった親族たちから実家のカギ!を取り戻し、
(留守中に勝手に鍵を開けて親族に出入りされるのが私の実家でした)
電気や水道や電話や保険の廃止、解約の手続きを進め、
このあと、自宅に引き取る荷物の引っ越し業者選定、廃棄物処理業者との日程調整・・・
最終決済日まで、まだこの落ち着かない日々が続く中、
母が残した千羽鶴も写真を撮って、廃棄。
(何のどんな紙でも、すぐに鶴を折っていた母です。
もう数えきれないくらい廃棄しました)

この鶴は随分大きな鶴。
手編みのブローチと一緒に床の間に飾ってありまりました。
ガッツリ固定された左手も、ついつい使って、あれこれ片付けていたら、
何かの拍子に胸が苦しくなって涙がこみ上げそうに・・・

母も亡くなる数年前に同じように手首を骨折したのを思い出し、
その母が、回復期に使っていたサポーターを持ち帰りました。
父を看取った時には、あまり「後悔」にさいなまれることはなかったのに、
母に対しては、引きずるような思いが残っているまま3年が経ち、
母が尊敬していた日野原先生に続いて、デーケン先生もこの世の人ではなくなって、
なんだか心にポッカリと穴があいたような寂しさを感じながら過ごしている数日間です。
心を空っぽにして、もう一度、今はどういう「時」なのか、
自分自身を振り返ってみたい・・・
先に紹介した本の中に、
>悲嘆のプロセスに影響する心理的要因にはいろいろありますが、
>亡くなった人に対する未完了の務め というのがあります。
という文章があります。
「未完了の務め」(unfinished business)
そう、この言葉がしっくりくる気がします。
今、自分がやっている、「実家の整理、売却」が、何らかの形で、
亡くなった母の慰めになればいいなと願いながら、
最後までやり遂げなければ、という「責任感」のようなものも感じています。
母が折った鶴は、自宅でも廃棄しましたが、それでもまだ屋根裏に多数残っています。
何羽も何羽も鶴を折りながら、母は何を思っていたのだろうなあ。
まだ読み切れていない日記ノート。
ナカリのためにも「生き物」を飼った方がいい、とは思いつつも、
両親の遠距離介護が始まった頃に相次いで熱帯魚が死に絶え、
その後は生き物を飼うこともままならないまま数年過ぎて、
両親を送ってから、我が家にやってきたアキちゃん。
外に出すと、のべ~~ん、びよ~~ん。
ウサギってこんなに伸びる!

足を交差させて寝転んでいる様子が、なんとも可笑しくて。
抱っこは苦手でも、ナカリにおとなしく抱っこされるアキちゃん。

手作りマスコットたちも、母が逝ってから作り始めたので、
いろんなことを、心で報告してばかりです。
胸の内が複雑な感情にごちゃごちゃ状態なのを感じていたところへ、
リンク先の「吉報配達ブログ」で、「ブランクスカイ」の記事を読み、
あ~~、アタマ空っぽにしたい!という衝動に駆られました。
心は折れてはいないけれど、ちょっと疲れてるかな。
今が踏ん張りどころなんだろうけど、
少しの間、ぼーっとしたい・・・お母さん、休ませてね。
来週、また、帰るから。
今回の帰省往路の飛行機で仕入れた曲、Doja Cat の「Say So」
ナカリが気に入って、リピートしています。
英語の曲ですが、息子が好きなドイツ語バージョンがあったので、そちらを貼っておきます。
(息子は、不登校時代、英語よりドイツ語が好きで独学スタート、
同級生から「そんなん勉強して何になるん?」と言われながら学び続けました。
今はラテン系言語が主ですが、彼の外国語学習の原点はドイツ語なので、
この動画を発見して感慨深かったです。)
今日も最後までありがとうございました。

