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ナカリママ

Author:ナカリママ
「無事にね!」は下の子どもの口癖です。その本人のホームページとリンクしています。一般的には子育てを終えている年齢ですが、まだまだ当事者である子ども達から学ぶことばかりの毎日です。

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モノを手放す 今を大事に&先々の子どものために
ご訪問ありがとうございます。

昨夜は、ナカリをショートステイに送ってから、
いつもの帰宅ルートを逆行して出勤し、
夜、仕事をして一泊してから、
朝、また出勤の人混みを逆行して自宅に戻り、
午前中、住居コーディネーターさんに家全体を見ていただき、
そのあとゆっくり面談して、
今後の「住まい」について話し合いました。
収納の在り方や、メンテナンス、防災対策などなど。

お話に刺激を受けて、
午後は、懸案だったガラスケース入り日本人形(親から譲り受けたもの)を、
近所の質屋に持ち込んで、2体100円で買い取ってもらい、
ナカリの小学生時代の衣服の整理をして洗濯し、リサイクルに備えました。
押し入れから、上の息子の幼稚園カバンなんかも出てきたので処分。
実家の片づけと並行して、自宅の片付けも必要、と、改めて認識したところです。

思い出は思い出として心に残して、モノはなるべく少なくしていく。
今を快適に過ごせるように意識すると同時に、
この先、自分たちが年老いて介護が必要になった時や、
亡くなった後、残された子どもたちが過ごしよい住まいであるように。

日常生活の中で、「掃除」をもっときちんとやって行こう、と反省中です。
トイレの掃除、浴室の掃除、
雨戸の掃除、窓ガラスの掃除、
台所の掃除、戸棚の中の不要なものの処分・・・

いつだったか、
家事はマイナスをゼロに戻す作業、という文を読んだことがあり、
プラスを生むものでないだけに、評価されにくいけれど、
生活の質を上げるためには、なくてはならない作業、という意味で、
手抜きはあとあと響いてくる、というのを実感しています。

ナカリは、この先も在宅で過ごす生活になりそうなので、
家の中の環境を整える、という作業を、しっかり伝えていかなくては。
特性もあって、片づけるのはとても苦手ですが、
なるべく整理整頓を心がけた方が、メンタルの落ち着きにもつながると思うので、
無理のない範囲で、親子で一緒に家事スキルを上げたいと思います。

さて、ショートステイのお迎えまで、もう少し、
掃除と片づけを頑張ろう。

秋の衣替えの季節には、タンスと押し入れの大掃除が待っている!
シーツを洗濯して糊付けして・・・頭のなかでシュミレーション。
「一度しかない人生、今に感謝しながら、めいっぱい喜んで、楽しく」
レナード、を見て以来、意識的にそう思うようになっています。
サックスさん、ありがとう!



追記) 谷口稜嘩さんが亡くなられました。
    すぐ側に座ってお話を聞かせていただいた時のことが思い出され、
    ご冥福をお祈りするばかりです。
    過去記事を貼っておきます。
    長崎平和祈念式典と「アメリカンスナイパー」





未分類 | 15:27:54 | トラックバック(0) | コメント(6)
目に見えない空想のキャラクターを大切にする(イマジナリ―フレンド)
ご訪問ありがとうございます。

昨日の記事で「肖像画」を描いているとご紹介した「カゲウラさん」。
ナカリの心の恋人です。
パラレルワールドのなかにイメージとして存在し、
イラストに描いて2次元化したり、
私がぬいぐるみマスコットを作って3次元化したり、
キャンパスドールを購入し、服を着せて顔を描き込んで一緒に暮らしたりしています。

昔の記事で紹介した映画「ラースとその彼女」に出てくるリアルドールのビアンカ、を、
羨ましいなあ、あんなのが欲しいなあ、と思っているナカリです。
(いろいろ検索しましたが、リアルドールは圧倒的に女性ばかりで、
男性のドールはアメリカ製とか、超高価格とかで、手が出ません)

「目に見えない存在」を身近に感じる、というところで言えば、
昔、少年ジャンプで連載されて話題になった「ヒカルの碁」に出てくるオバケ?「佐為」、
…みたいな存在、というのはナカリの弁。
他の人には見えなくても、自分だけには見えている、そういう感じ。
いつでもどこへでもついてくる、そばにいてくれる。
イマジナリーフレンド(ラバー)。

想像力が豊かな子どもたちが、つくりだすキャラクター。
特に、自閉っ子にも多く見られるとか。
幻聴ではなく、幻視に近い部分もあるかも。
(妄想、という表現は本人が嫌がります)

でも、考えたら、これって・・・
「赤毛のアン」や「星の王子さま」にも通じる部分、ですよね。

どこまでが現実で、どこからが空想なのか。
想像力がたくましい、ということは、
生きる上で、多少不便かもしれないけれど、実はとっても素敵で楽しいことじゃないのか…。

正直言うと、
私自身、昔はなかなか受け入れがたかった世界なのですが、
紆余曲折、何度もの失敗体験から学ぶ中で、
心の世界を頭から否定したり、現実を押し付けたりしないで、
一緒に空想を楽しむようにしよう、と心がけ、
また、本人を傷つけないように、いろいろ考え、
配慮を重ねながら、「今」まで辿り着きました。


今回、肖像画を描きたいと思ったきっかけは、昔、見た映画「ハーヴェイ」。
ジェームズ・スチュワート主演、1950年製作の白黒映画ですが、
私が偶然テレビ放映を見て、これ!ナカリと一緒だ、と、心動かされてDVDを購入し、
親子で一緒に見て、分かる分かる、と共感したものです。

ハーヴェイ映画カバー
主人公には、身長180センチを超える巨大なウサギ、ハーヴェイ、が見えていて、
自分の大切な友達として、まわりの誰彼となく紹介してまわります。
目には見えない=写真には写らないけれど、肖像画には描くことができるハーヴェイ。

ハーヴェイ肖像画

このシーンが強烈に残っていて、いいな、と。
(ただし、
一緒に自分のイラストも描いてしまうと、自分であって自分ではないナカリにやっかみそうなので、
カゲウラさん一人だけの肖像画にした次第です。)

映画そのものの解説は、「ラースとその彼女」も含めて書かれたブログを見つけたので、
良ければこちらを・・・ 雑記「ハーヴェイ」鑑賞

誰に迷惑をかけるわけでもなく、
ずうっと心の友達、恋人を大事にして、穏やかに自分の世界を生きる…。
それもあり、だな、と、今は思っています。

映画「ハーヴェイ」に出てくる精神病院での治療について、
タクシーの運転手が、「治療の注射を受ける患者が、行きは陽気なのに、帰りは人が変わったよう…」
と話すのを聞いて、それまで「あのウサギを何とかして!」と言っていた主人公の姉が、注射を断り、
ハーヴェイの存在を認めて、これからも一緒に暮らそう、という気持ちに変わっていった姿が印象的でした。
(ちなみに、この姉役のジョセフィン・ハルさんは、アカデミー助演女優賞を受けています)


無理をして、現実との折り合いをつけさせる、のではなく、
心の世界を尊重しながら、どちらかというと、その世界に主軸を置いて、
この厳しい世の中を、何とか生き抜いていけたら、それで十分、マル。
外の世界からの情報を取捨選択して、不必要な刺激は避けて、
穏やかに生きよう。

今回の肖像画製作で、笑顔が出ているナカリの気持ちを大切にしたい、
と、しみじみ思っています。
「ラース・・・」の記事を書いた時よりも、ナカリに寄り添えるようになったかな…。
なんとなく、迷いが吹っ切れた感じが自分でもしていて、
先々長いナカリの人生を、ありのまま、できるだけ楽しく平和に
と、
先取り不安を乗り越えて、親の立場でも、そこに重きを置けるようになったことが、
自分自身、ちょっと嬉しい発見でした。

明日はナカリとマスコットたちと一緒にショートステイです。
旅行気分で楽しめますように!

今日も、長々、読んでくださってありがとうございました。



子どもの日常 | 22:52:17 | トラックバック(0) | コメント(4)
「療育」はいつまで? 自立に向けた息の長い取り組み
ご訪問ありがとうございます。

今日も、先生のアトリエを訪問して、絵を描いてきました。
今回は、パラレルワールドの恋人、カゲウラさんの肖像画を描きました。
アトリエ到着の直前まで、うまく描けるかなと心配していましたが、
2時間かけて、次回で完成できるのでは、というところまで描き上げることができました。

肖像画と先生

肖像画

絵を描くことで、自信をつけたり、気持ちを解放させたりする、
家族以外の人間関係に慣れる練習をする、という意味で、
アートセラピーという位置づけにして、通ったり訪問していただいたりしています。

昨日、映画「レナードの朝」を観直して、
医療と障がい(疾患)ということについて考えさせられた後なので、
ある意味、これも「療育」の延長だなあ、と思い、
送迎の待ち時間に、改めて「療育」って…ということを考えてみました。

一般的には、あまり耳にすることがないだろう「療育」という言葉。

私がこの言葉の意味を初めて聞いたのは、
ナカリと通った母子通園施設の園長先生のお話のなかで、です。

「医療は治癒が目的で、治らない障がいはその範疇から外れていた、
一方、教育の分野でも、障がいをもつ子どもが、長く対象から外されていた、
それはおかしいと考えた学者によって提唱されたもので、
両者を統一してとらえ、障がいとともに生きる子どもたちのために考えられた概念」
…そんな感じで説明されたような記憶があります。
「医療」+「教育」という発想が、なんだかとても印象的だったのを覚えています。

改めて検索してみると、

療育(りょういく)
心身に障害をもつ児童に対して、社会人として自立できるように医療と教育をバランスを保ちながら並行してすすめること。
東京大学名誉教授の高木憲次(1888―1963)によって提唱された概念で、
「治療をしながら教育する」ことがたいせつであるという意味合いが込められている。
すなわち「療」とは医療あるいは治療を意味し、「育」とは養育や保育もしくは教育を意味する。
(後略)
出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)


とのこと。

母子通園施設では、まさにその言葉通り、
保育を受けながら、併設する市立病院のリハビリ科や小児科と日常的、定期的な連携がなされ、
子どもの障がいに向き合い始めたばかりの親たちにとって、大きな支えになっていました。

その通園施設を「卒園、退園」して、地域の保育所や学校に通うようになってからは、
「療育」の場を求めて、市立病院の言語訓練に通いながら、他市の施設までも足を運びました。
当時は身近に今のような「放課後等デイサービス」はなかったので、
親同士の口コミや、病院からの情報を頼りに、
我が子のために少しでも役に立つ場を、と、模索し続ける毎日でした。

18歳を過ぎて、障がい児ではなく障がい者という立場での支援を受けることになり、
今は、いつか就労につながるためのステップとして、
相談機関の当事者会になじむ努力をする一方、
このアートセラピーと、カウンセリングを定期的に受けながら、
2か月ごとのショートステイ利用で自立に向けた練習も重ねて、
何とか日々の生活を組み立てています。

辞典に載っている意味で言えば、対象は「児童」だから、
もうこの年齢では「療育」という言葉には当てはまらないのだろうけれど、
ゆっくりな成長を続けている子どもを見ていると、
今の状態は、やっぱり、まだまだ療育を続けている、という気がします。

(ちなみに、大阪府の知的障がい者手帳は「療育手帳」という名前で、
大人に対しても使われる言葉として定着しているように思います)

「自立」というゴール?を、どんな状態とイメージするか、にもよりますが、
人は生きている限り、ずっと成長していくものだろうから、
ここまでで終わり、と線を引けるものではないし、
その人その人の人生のペースに合わせて、必要な支援を受け続けられたらいいな。

「治す」ことを目標にするのではなく、
「治らない」状態を受け入れつつ、生活の質を上げていくために可能な努力を続ける、
その際に、医学的な側面と併せて、社会教育の視点で、生きる力をつけていく・・・
そんなイメージでしょうか。


以前の記事にも書きましたが、「学校時代」は過ぎていきます。
学校を出てから先の方が、ずっとずっと長い人生。
山あり、谷あり、いろんなライフイベントが待っています。

一度しかない人生。
悔いのないように、精一杯生きること。
生きていることを楽しむこと。
喜ぶこと、哀しむこと、恋すること、愛すること…
子どもたちには、いろんな感情を、いっぱいいっぱい、
体全体を使って、しっかり味わってほしい。


映画の余韻に浸りながら、もう一度BGMをアップさせてください。
ピアノ…弾けたらいいなあ~。
私も、自分自身を成長させるための努力を続けていこう。







未分類 | 17:47:29 | トラックバック(0) | コメント(4)
オリヴァー・サックス「心の視力」 と映画「レナードの朝」
ご訪問ありがとうございます。

昨夜の雨のおかげで、今朝は涼しい風が吹いて、クーラーを止めることができました。
まだ残暑は続きますが、ツクツクホーシも鳴き始めて、トンボが飛び交って、
ちょっとずつ季節が移っていくのを感じます。

今日は一日ナカリと一緒に、まったり過ごしました。

ナカリの様子をみていると、ほんとに、穏やかになったなあ、と感謝。
不穏、不安、で、入院まで、追い詰められた毎日を過ごしていたのが3年前の春で、
その後、2年前の春には父の看取りを乗り越えて、少しずつ少しずつ落ち着き、
今年はじめに母を看取ってから後は、大きく荒れることなく過ごせていて、
夢のようです。

すべてに時がある

それを実感しています。
いろんなことが、1年早くても、1年遅くても、大変だったろうから、
こうして今があることは、ほんとに奇跡のような巡り合わせ。

巡り合わせ、といえば、書物や映画との出会いも似たようなところがあるなあ。

映画「レナードの朝」を観て、原作者として名前を知ったオリヴァー・サックス氏の著作のひとつ。
「心の視力  脳神経科医と失われた知覚の世界」(早川書房)
古本で入手したものの、長くページをめくらずにいたので、
ナカリの通院日に持ち歩きました。

読み始めると、ぐいぐい引き込まれ、一気読み。
私自身、原因不明のぶどう膜炎を何度か繰り返し、
片目の視界が真っ白になった時には、病院を3つ渡り歩き、眼帯生活をしたので、
著者が片目をガンに侵されて闘病するくだりは、ドキドキでした。

「失読症」「相貌失認」「失語症」「立体視力」「視覚心像」・・・

モノを見るための視力、だけではなく、
見えているものが何なのかを認識し、適切な反応を示すことができるための脳の働き、
それが何らかのトラブルを起こした時に現れる、いろいろな現象に触れて、
改めて、脳ってすごい、人間って不思議、と感嘆しきりです。

訳者あとがきより
>文字の歴史はせいぜい5000年くらいなのに、
 なぜ人類の脳には読字のための能力が組み込まれているのか。
 そもそも「見る」とはどういうことなのか。
 人は「考える」ときにどれだけ視覚イメージを頭のなかに描いているのだろうか。
 生まれつき目の見えない人が、どうして世界のことを生き生きと言葉で表現することができるのか。
 視覚と脳、目と心の不可思議な関係についての興味は尽きない。

著者「はじめに」より
>そのような経験を知ることで想像力が豊かになり、
 ふだん健康のなかに隠れているもの、
 すなわち脳の複雑な働きと、
 障害に適応し打ち勝つ驚異的な脳の能力を理解できる―――
 もちろん、他人には想像もつかないような神経学的難題に直面したとき、
 個々人が見せられる勇気と強さ、そして発揮できる力量も。


ナカリは、自閉症の特性そのままに、視覚優位(聴覚劣位)の人です。
幼い頃、パニックを頻発していたのが、文字を覚えることで大きく改善し、
書く、描く、ことで自分を支えて成長してきました。

少し前の記事で、
人混みに入ると目がチカチカして刺激が強く、辛くなる、
という感覚をシュミレーションした映像を紹介しましたが、
「見る」力が強すぎるのも、フィルターなしに刺激が押し寄せて大変なことが分かります。

今、このタイミングで、「サックス先生」に再度出会えたこと、に、しみじみしています。

サックス氏死去(2015年8月30日)のニュース


そして、もう一度観たくなった「レナードの朝」から、ダンスのシーン


心にしみる音楽と、ロバート・デ・ニーロの熱演、ロビン・ウィリアムズの優しい笑顔。
うん・・・観たい、観よう!

ナカリがまだ自閉症の診断を受ける前に出会って、その後一番長く診続けてもらったドクターも、
脳神経科でした。
お母さまの介護のため、退職して故郷に戻られたので、もう会うこともない先生なのですが、
優しい笑顔が懐かしく思いだされ、忘れられない「恩人」です。
その思い出とともに、映画にも、もう一度、出会い直しができたらいいな。
眠れない夜は一人シネマ・・・。
ああ、秋だなあ~


長々とすみません。
読んでくださってありがとうございました。





読んだ本・文章、見た映画・ドラマ、聴いた音楽 | 21:43:23 | トラックバック(0) | コメント(8)
アクリル画が完成 & 減薬!
ご訪問ありがとうございます。

今日は遠方の病院までがんばって行ってきました。
今週は、月曜に先生のアトリエで絵を完成させ、
今日までいろいろ、やり切った!感、があります。

前回の記事で、まだ途中、と言っていた絵に描き足したのですが、
間違い探しみたいに、見比べながら、2時間かけて手を入れた部分を確認。


樹が大きくなった。
花が増えた。
草が増えた。
山と空の境目がクッキリした。

・・・のが分かりやすい違い。
あとは、細かい描き込みが増えた、かな。

先生もおっしゃってましたが、仕上げに入ると筆の進みが遅くなり、
手を止めてじっと眺める時間が増えるそうです。
最後はこれで満足、と本人が納得したので、自宅に持ち帰りました。

昨日、上の息子が下宿に戻ったので、
それまで「恥ずかしい」と隠していた絵を取り出して、
調律してもらってピカピカになったピアノの上、
祖父母の写真の隣に飾りました。

何だか部屋の窓から外が見える感じで、広々した風景に気持ちよくなり、
本人も、嬉しい、と笑顔です。
おじいちゃん、おばあちゃんも喜んでくれてるかな。

段ボール絵

良い気持ちで自己表現ができた経験は、
こころのリフレッシュにもなり、自信につながっている感じがします。

良かった良かった。



ところで、
今日、ドクターと相談した結果、
このところ落ち着いている状態なので、ナカリの朝の薬を半分に減らすことにしました。
この先も少しずつ様子を見て、調節していけたら、と話しています。
体重が気になることについては、お試しで、漢方薬を1週間分いただいてきました。
メンタルのお薬は、上手く使えば助けになりますが、
長期服用していると、副作用や依存も心配なので、今後もきちんと相談していきたいです。

ついでにいうと、
1カ月前から私自身も、自己判断で減薬してきたのですが、
この数週間、顎の違和感があり、今週、堪らず歯科を受診。
少し削って調整してもらったおかげでいったん改善したものの、
昨夜あたりから、また気になりはじめ、顎コリ?肩こり、が辛いので、
ネット検索してみたら、噛み合わせの不調は、うつ症状にも関係するとか!
自己判断しないで、やっぱり専門家に頼らざるを得ない感じです・・・
脳の働きって、なかなか厄介ですね。
健康でいよう!と決意したところなので、メンテナンスを心がけます。



最後に、今週、出会った、(多分)自閉症の青年のこと。

仕事帰りに自転車で信号待ちしていたら、
突然、見知らぬ青年から「暑いね!」と、声をかけられました。
こちらも思わず、「暑いですねー」と返事したら、
「ボク、○月○日が誕生日。あなたは?」
「え、え~と、×月×日」
「何年?!」
「え、え~と、昭和〇〇年」
「昭和〇〇年! 19〇〇年!」(即答、この人カレンダーボーイだ!)
ここで信号が変わって私が自転車をこぎ出すと、
後ろから「また、会いましょう!」と、さわやかな大声。
おもわず、笑顔になってしまいました。
また、会いましょう!・・・って、なんだか、いい言葉。
良い気持ちになったことを考えていたら、噛み合わせも少しは気にならなくなるかな(^-^)


とにもかくにも、夏の疲れが出る時期なので、注意注意。
皆さんもご自愛くださいね。
他愛ない話を読んでくださって、ありがとうございました。



ナカリの作品 | 21:29:07 | トラックバック(0) | コメント(12)
「お母さんは死なないもん」 毎日新聞「卒母のススメ」より
ご訪問ありがとうございます。

昨日出勤した際、夫が毎日新聞を机に置いてくれていました。
今回の「卒母のススメ」
3本目の投稿は、熊本市の69歳のお母さん。
末っ子の28歳の娘さんに知的障がいがあり、
「一日たりとも1人にすることはできない」とのこと。
そのお母さんが、時々、娘さんに「お母さんが死んだらどうする」と問うと、
答えは決まって「お母さんは死なないもん」・・・だそうです。
<娘と一日違いで旅立つ――それが私の理想の卒母である>
という一文で、締めくくられていた投稿を読んで、
69歳にして、すごい覚悟!と、背筋が伸びました。

私自身、現在のところは大きな持病を抱えている訳でもなく、
更年期の服薬も終わり、抗不安薬を減薬、断薬しようと試行錯誤中、
不眠はなかなか治りませんが、がんばって健康を維持しないと。

ナカリの方から
「お母さんが死んだらどうしよう」
という不安が口をついて出ることがしばしばあり、
そういう不安を子どもに抱かせないのが親の頑張りどころ、と、
気を引き締め直しているところです。

28歳の娘さんが、安心して「お母さんは死なないもん」と毎回答えられる・・・
なんてすごいことだろう!
あと10年くらい先に、ナカリがそんな気持ちでいられますように。


息子の風邪がようやく治まってきて、今朝病院で薬をもらったので、
このあと下宿に帰る予定です。
今、久しぶりにピアノを弾いています。

今回長い帰省になったので、帰るとなると、やっぱり寂しい。
お盆明けのニュース。
帰省ラッシュの駅や空港で、祖父母と別れる孫が泣いていたり、
祖父母の側も「やっぱり寂しいですね」とインタビューに答えていたり、
そんなシーンを思い出しながら、
胸がキュンとします。

平常心、平常心。

昔、
「亭主元気で留守がいい」
というコピーが話題になったと思います。
それとはちょっと意味は違う感じではあるけれど、
親も、子どもに心配かけず元気で、一歩離れて見守っている、くらいでいられたらいいなあ。
子どもの方も、親に心配かけず元気で、しっかり日々を過ごしてくれますように。


息子が弾いてくれた
ギボンズ「ソウルズベリー候のパヴァ-ヌ」
彼が帰った後も、ユーチューブで聴けることに感謝です。


今日も暑くなりそう。
あと少し、夏を乗り切って、がんばろう!




読んだ本・文章、見た映画・ドラマ、聴いた音楽 | 10:35:06 | トラックバック(0) | コメント(2)
外部からの刺激を遮断するツール~帽子とサングラスとイヤホン
ご訪問ありがとうございます。

今日はナカリと二人でバスに乗って、先生のアトリエまで出かけました。
暑い暑い直射日光の中、帽子は必須ですが、さらにサングラスも加えて、
いつものようにiPodをイヤホンで聴き、
視覚と聴覚を守りながら往復しました。

実は今朝、
出勤する夫から、「リタリコ発達ナビで、自閉症の視覚体験シュミレーターを見たよ」と聞き、
「人ごみに入ると、光がちらちらして苦しいのがよく分かった」とのことで、
早速検索。
ユーチューブにも挙がっていたので、貼ってみます。



確かに、これはしんどいだろうな。
(リタリコの記事は 自閉症を体験できる?阪大と東大が開発中の「自閉症知覚シミュレータ」がすごい )

ただ、娘の場合、振り返ると、
幼い頃はかなりの過敏性でパニックも頻発でしたが、
保育所時代から集団に慣れ、積極的に人に関わろうとし、
小学校ごろにはディズニーランドも大丈夫なくらいに落ち着いていたのが、
中学でのいじめ目撃体験に傷ついて、高校で通学途中の舌打ちに驚いて、
すっかり人混みが怖くなってしまったので、
自閉症によるもの、というより、2次的な感覚過敏も大きいのではないかと思います。

見え方も、これほどのチカチカではないような…。
実際、娘にもこの映像を見てもらったら、
「チカチカはしないけど、こんな感じ、分かる」とのこと。
とにかく、
人混みの中で私が感じるストレスと娘が感じるストレスの大きさは、比べ物にならない、
と再認識しました。
記事の中に、
必要なのは「大丈夫だよ」という言葉かけではなく、
 帽子を目深にかぶらせて目から入る情報を減らし、耳を塞いで刺激を遮断してあげることだった

という文章を見て、納得。

私は盲導犬のように寄り添って、一緒にバスに乗った次第です。

アトリエで2時間、よく集中して頑張った後、帰りのバスもクリア。
いっぱいほめて、帰宅後は休ませました。

おつかれさま。

今週は、もう一度、遠方の病院まで一緒に出かける予定なので、
次もきっちりガードして臨みたいです。

自宅での情報遮断として、二人の間はテレビ断ちしていましたが、
この間、結構テレビをつけてしまっているので、
私が席を外すと、ナカリは自分でテレビのスイッチオフ、を繰り返しています。
オフできない時には自分から、別の部屋に避難しています。
ごめんね、こちらが合わせないとね。

「外の世界の情報」が、フィルターなしに侵入してきてしまう辛さ、を想像しながら、
安心できる環境を整えるように心がけたいです。
夫からの情報に感謝でした。



子どもの日常 | 22:23:48 | トラックバック(0) | コメント(6)
故郷の花火大会と、「シュレーディンガー」のつづき
ご訪問ありがとうございます。
今日も暑い一日でした。ご無事に過ごされましたでしょうか。

夕方から夜にかけて、瀕死のセミたちの鳴き声が続いています。

今日は、台風で延期になっていた花火大会が、母の実家近くで無事、開催されたそうです。
昨年の花火大会の日、
外泊中の母を車いすで港沿いの端まで一緒に連れて行ってくれた叔父が、
「早くも1年がたちました」と、メールで写真を送ってきてくれました。

花火大会1

花火大会2

花火大会3

港町の花火なので、海に映って大きな花火が二つずつ。
去年はこれを、叔父と一緒に母が見たんだなあと思うと、感慨深い気持ちでした。
こんなきれいな花火を近くで見れて良かったね、お母さん。
この想いを何か記録に残しておきたくて、記事にしています。

もうすぐ、亡くなって半年。
天命だから、息子のピアノを聴きながらだったから、悔いることは無い、と思いながら、
息が止まるまでの一部始終を目に焼き付けるように凝視していて、
手を握ることを忘れていた、見ているだけだった、ということに、後から気がついて、
父の最期には母が手を握りながら賛美歌を歌ってあげていたことを思い出し、
あの時、ぎゅっと手を握りしめていてあげたら良かった、と、振り返ってしまいます。
でも、しかたのないこと。
ちゃんと看取れただけでもありがたかった。
悲しみと向き合う経験をくれたこと、母からの最後の贈り物としてしっかり受け止めておきたい。

以前、息子が「一番悲しいのは、自分の母親が亡くなる時だと思う」ということを言ってくれて、
親としてありがたく、また、でも、いずれその時を迎えないといけないから、
(順番を違える方が、耐えられないと思うから)
後に遺された気持ちの整理をがんばってほしいと願うばかり。


…そんな気持ちで読み進んでいる「シュレーディンガーの猫を追って」
昨日につづいて、抜き書きします。
故郷の花火の写真が、本の文章が、思い出を改めて心に刻み込んでくれる、
そんな気がしている夜です。


>大いなる喪の悲しみが輝くように炸裂する。
 世界にその光を広げる青空のなかで。

 ・・・

 恍惚のようなもの。
 破廉恥でぞっとする。
 どん底に落ち、すべてを失った感覚を知らなければ、そして完全にからっぽになった世界のなかですっかり自由になったという感覚を知らなければ、理解できないだろう。
 浮揚しなければならない。
 足もとの地面は崩れ去り、当てにできるものはもう何もない。

 ・・・

 あの子が亡くなって、世界はその中心を失ってしまった。
 腹に穿たれた穴。
 胸にある一種の裂け目。
 そこから見えたのは虚無だけだった。
 彼女の不在によって残された空間には、一度も目にしたことがないような驚くべき白昼の光景が広がっていた。
 悲痛な思いのせいで、わたしたちは惚けた状態で何もできず、ただ目を見開いてそれを見つめていただけだった。
 事物の愚かしいまでの美しさを、茫然自失して見つめていた。
 天空を経めぐる太陽の動き。
 暗闇にじわりと滲み出る月と星々。
 そして、もはや理にかなった何かを語りかけることもないままに、わたしたちに向けて同じような徴を送り込んでくる生。
 まるで、彼女が逝ったことで、一陣の突風がすべてを吹き飛ばし、生きることの偽りの外観を彼方へと一掃したかのようだ。
 そして、身体に心地のよい風が、わたしたちのほうへと無数の微小な現象を追い立て、やむをえずわたしたちは、その恍惚とした観察者になったかのようだった。

 ・・・

 死んでいるのか、生きているのか?

 わたしは完璧な物語を知っている。
 思うに、シュレーディンガーが着想した思考実験をもっとも見事に物語化したものだ。
 現実には対照的なふたつの状態があり、どちらも観察の仕方次第で存在が決定されるとして、わたしの知る物語は、あたかもそのふたつが重なり合っているかのようにして世界を明らかにしてくれる。
 それは、わたしの人生のもっとも正確な寓話でもある。
 どうして今頃になってそれを思い出したのだろう。


心の内を文章にする、その営みが、ひとつの喪の行為なんだな、と、
しみじみしました。
書き写しながら、
時と場所を超えて、一緒に「彼女」の存在を偲ぶ気持ちになり、
そこに母も重ねて、後悔を洗い流し、これからさきの物語をつくっていこう、と思いました。

読んでくださってありがとうございました。









思い出 | 22:51:09 | トラックバック(0) | コメント(2)
「シュレーディンガーの猫を追って」と、バッハ・のパルティ-タ
ご訪問ありがとうございます。

息子の風邪が長引いています。
予定外の長期帰省となり、月末締め切りの仕事や、原稿チェックのメールが入るたび、
少しずつ焦り始めている様子ですが、
考えてると余計に治らないから、今は頭を休ませて、と、言い聞かせています。

夕食後、久しぶりに一緒にバッハを聴くことも出来て、
母としては、ありがたい時間。
聴いたCDは、セルゲイ・シェプキンが弾くバッハ「パルティ-タ1~4番」

聴きながら、
風邪をひく前に息子に買ってきてもらった「シュレーディンガーの猫を追って」(河出書房新社)のページをめくりました。
新聞の書評で見て、読みたくなり、本屋に行くという息子に頼んだものです。
フランス文学の棚にあったそうですが、哲学的な文章で、難解です。
でも、不思議と魅力的。
これ、原語で読めたらどんなに素敵かなあ…。

著者のフィリップ・フォレスト氏は、4歳の愛娘を病で失くしてから作家になったとのこと。


>質問するのはいつも子どもたちだ。
 大人はみな、答えなどないと言い放って投げ出してしまう。
 例外は、哲学者、学者、詩人だ。
 赤子と同じくらい無防備な彼らは、赤子とほとんど同じ結論―あるいは結論の欠落―にたどり着く。
 
 「前はどこにいるの?」
 「生まれる前かい?」
 「うん」
 「ママのおなかのなかさ」
 「それは知ってるわ」
 「そうか」
 「みんなそうなの?」
 「ああ、みんなそうだ」
 「でも、前は?」
 「何の前だい?」
 「もっとずっと前」

 ・・・

 「じゃあ、人間よりも前は?」
 「人間より前の地球には動物たちがいた。
  それから、動物だけじゃなくて、いまぼくらが知っているものがぜんぶあった。
  海、山、森、河、それにお花。
  上を見上げれば、空と雲。
  もっと遠くには、太陽、月、たくさんの星々」
 「じゃあ、もっと前は?」
 「もっと前?」
 「うん、地球とか太陽とか月とか、空にあるほかの星より前は?」
 「その前はわからない。
  もし何かがあったとしても、それを見られるひとは誰もいなかった」
 
 ・・・

 「じゃあ、ほんとうの始まりには?」
 「なんにもなかった。真っ暗闇みたいに」
 「ずっと?」
 「すごく長いあいだね。
  太陽もなかったから、日も数えられなかった。
  まるで時間が動き出していなかったみたいだった」
 「どこで?」
 「どこでもあるし、どこでもない。
  大きな虚空。なかには何もない宇宙だ」

 ・・・

 「ずっと前に死んでしまったのに、いまも光が見えるの?」
 「誰のことだい?」
 「お星さまよ。そう言ったでしょ?」
 「そうだね」
 「死ぬって、暗闇のなかで眠るみたいなことだと思っていたわ」
 「ああ、そうだね、きっと」
 「でも悪夢は見ない?」
 「ああ、悪夢は見ない」
 「それでどうなるの?」
 「死んだひとは暗闇のなかで眠る。
  でも他のひとたちは、彼らが残す光を見つづけるんだ」
 「ずっと?」
 「光が虚空を旅しているあいだ、そして、その光が通ってゆく空をどこかで誰かが眺めているあいだはね」
 「じゃあ、けっして終わりはないのね」
 「ああ、ある意味では、けっして終わりはない」


まだ理解しやすかった部分を抜き書きしました。
今年母を看取ってから、何かにつけて「死」について考える著作を読みたくなり、
今回もその流れで手に取った本ですが、この文章に深く揺さぶられました。
「終わりはない」
そうだなあ。
そう思うことで、未来に繋がっていく。
希望をもち続けていられる。

バッハを聴きながら、胸いっぱいになった夜でした。
検索して出てきたのは、やっぱりグールドです。
1番、3番だけですが、貼っておきます。



本は、まだまだ読み終われそうにありません。
この夏のいろんな思い出と一緒に、心にしっかりしまい込めるように、丁寧に読みたいです。



読んだ本・文章、見た映画・ドラマ、聴いた音楽 | 22:33:08 | トラックバック(0) | コメント(4)
図書館での当事者会
ご訪問ありがとうございます。

昨日の当事者会は、場所が市立図書館でした。
曇り空の下、ナカリとウォーキングで20分余り、
集合時間から少し遅れて到着したけれど、誰もいなくてどうしようか・・・
とりあえず中に入ってみると、久しぶりの中央図書館はリニューアルされていてビックリ。

隅っこの席を確保してナカリを座らせ、
私だけ入口周辺をウロウロ。
すると、入り口近くの席に見覚えのある方が一人。
「○○さんですか?」とお声をかけると、はい!と笑顔。
皆さんまだですね~、相談機関に集まってそこから車で来られる人たちもいるからまだまだですよー、
と、何回かこの場で集まったことがあるような先輩の言葉に安心して、
奥の方にいますからと声をかけ、ナカリを連れて本棚を見て回りました。

美術の棚から何冊か選んで、椅子の方へ。
机も空いたので、座って模写を始めました。
特に気に入ったのが、ナカリが2歳の時に出版された古いイラスト集。
ポーズイラスト表紙

紙を載せて模写しながら、パラレルワールドのキャラクターに変身させて、
黙々と描きました。
その間に、お母さんが送って来られた方が一人、
相談機関から到着したスタッフさんと当事者さんたち、が集まり、
皆さんで「じゃあ、最後に集まる時間だけ決めましょうか」と、
40分後くらいに時間を決めて、各自、本棚へ。
私も1冊選んで、ナカリのもとへ。

静かな時間。

久しぶりの図書館でした。
ナカリは結局3冊借りることにして、
最後の集合時間にみんなと顔だけあわせて、
次回はVTRを観ましょう、何がいいですか?
手話とかいいかな、当事者さんの話も聞きたいな、という話だけして解散。

ただそれだけ、の集まりでしたが、
少しずつ顔見知りになれて、好きなイラストも描けて満足して帰宅できたナカリです。
ほんとに、ちょっとずつ。
話せるようになるまでの長い時間を、こうやって積み重ねていくんだな、と思いながら、
こうした「場」があることに感謝でした。

ナカリの模写を3枚アップしますね。
ポーズ模写1

ポーズ模写2

ポーズ模写3

ちょっとレトロな感じのイラスト集でした。
カゲウラさんファミリーに、ほのぼのした私です。
ナカリの頭の中で、こんな世界が広がってるんだなあ。


息子の方は風邪が長引いて、引き続き、寝て過ごしています。
芯が弱いので、いったん体調を崩すとなかなか回復しなくて本人も辛そう。
まあでも、諦めて、寝てるしかないですね。
世話をできるのもまた、母親の時間。大事にしたいです。
いのちの心配さえなければ、休んでいてくれることもありがたい気持ちです。

何でもない日常の話を読んでくださって、ありがとうございました。





子どもの日常 | 13:14:12 | トラックバック(0) | コメント(6)
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