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ナカリママ

Author:ナカリママ
「無事にね!」は下の子どもの口癖です。その本人のホームページとリンクしています。一般的には子育てを終えている年齢ですが、まだまだ当事者である子ども達から学ぶことばかりの毎日です。

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故郷の花火大会と、「シュレーディンガー」のつづき
ご訪問ありがとうございます。
今日も暑い一日でした。ご無事に過ごされましたでしょうか。

夕方から夜にかけて、瀕死のセミたちの鳴き声が続いています。

今日は、台風で延期になっていた花火大会が、母の実家近くで無事、開催されたそうです。
昨年の花火大会の日、
外泊中の母を車いすで港沿いの端まで一緒に連れて行ってくれた叔父が、
「早くも1年がたちました」と、メールで写真を送ってきてくれました。

花火大会1

花火大会2

花火大会3

港町の花火なので、海に映って大きな花火が二つずつ。
去年はこれを、叔父と一緒に母が見たんだなあと思うと、感慨深い気持ちでした。
こんなきれいな花火を近くで見れて良かったね、お母さん。
この想いを何か記録に残しておきたくて、記事にしています。

もうすぐ、亡くなって半年。
天命だから、息子のピアノを聴きながらだったから、悔いることは無い、と思いながら、
息が止まるまでの一部始終を目に焼き付けるように凝視していて、
手を握ることを忘れていた、見ているだけだった、ということに、後から気がついて、
父の最期には母が手を握りながら賛美歌を歌ってあげていたことを思い出し、
あの時、ぎゅっと手を握りしめていてあげたら良かった、と、振り返ってしまいます。
でも、しかたのないこと。
ちゃんと看取れただけでもありがたかった。
悲しみと向き合う経験をくれたこと、母からの最後の贈り物としてしっかり受け止めておきたい。

以前、息子が「一番悲しいのは、自分の母親が亡くなる時だと思う」ということを言ってくれて、
親としてありがたく、また、でも、いずれその時を迎えないといけないから、
(順番を違える方が、耐えられないと思うから)
後に遺された気持ちの整理をがんばってほしいと願うばかり。


…そんな気持ちで読み進んでいる「シュレーディンガーの猫を追って」
昨日につづいて、抜き書きします。
故郷の花火の写真が、本の文章が、思い出を改めて心に刻み込んでくれる、
そんな気がしている夜です。


>大いなる喪の悲しみが輝くように炸裂する。
 世界にその光を広げる青空のなかで。

 ・・・

 恍惚のようなもの。
 破廉恥でぞっとする。
 どん底に落ち、すべてを失った感覚を知らなければ、そして完全にからっぽになった世界のなかですっかり自由になったという感覚を知らなければ、理解できないだろう。
 浮揚しなければならない。
 足もとの地面は崩れ去り、当てにできるものはもう何もない。

 ・・・

 あの子が亡くなって、世界はその中心を失ってしまった。
 腹に穿たれた穴。
 胸にある一種の裂け目。
 そこから見えたのは虚無だけだった。
 彼女の不在によって残された空間には、一度も目にしたことがないような驚くべき白昼の光景が広がっていた。
 悲痛な思いのせいで、わたしたちは惚けた状態で何もできず、ただ目を見開いてそれを見つめていただけだった。
 事物の愚かしいまでの美しさを、茫然自失して見つめていた。
 天空を経めぐる太陽の動き。
 暗闇にじわりと滲み出る月と星々。
 そして、もはや理にかなった何かを語りかけることもないままに、わたしたちに向けて同じような徴を送り込んでくる生。
 まるで、彼女が逝ったことで、一陣の突風がすべてを吹き飛ばし、生きることの偽りの外観を彼方へと一掃したかのようだ。
 そして、身体に心地のよい風が、わたしたちのほうへと無数の微小な現象を追い立て、やむをえずわたしたちは、その恍惚とした観察者になったかのようだった。

 ・・・

 死んでいるのか、生きているのか?

 わたしは完璧な物語を知っている。
 思うに、シュレーディンガーが着想した思考実験をもっとも見事に物語化したものだ。
 現実には対照的なふたつの状態があり、どちらも観察の仕方次第で存在が決定されるとして、わたしの知る物語は、あたかもそのふたつが重なり合っているかのようにして世界を明らかにしてくれる。
 それは、わたしの人生のもっとも正確な寓話でもある。
 どうして今頃になってそれを思い出したのだろう。


心の内を文章にする、その営みが、ひとつの喪の行為なんだな、と、
しみじみしました。
書き写しながら、
時と場所を超えて、一緒に「彼女」の存在を偲ぶ気持ちになり、
そこに母も重ねて、後悔を洗い流し、これからさきの物語をつくっていこう、と思いました。

読んでくださってありがとうございました。









思い出 | 22:51:09 | トラックバック(0) | コメント(2)
「学校」時代は、過ぎていく
ご訪問ありがとうございます。

留守中に開かれていた、社協役員会の資料を、ブロック長さんが届けてくださいました。
今年度、断り切れずに副ブロック長を引き受けたものの、
毎月開催される役員会に出ないといけないとまでは思ってなくて、結構大変。
でも今月、来月は、帰省のため欠席、とお願いして休ませてもらっています。

資料を見ると、毎月届けられる、校区の小中学校の「学校だより」と「PTAだより」が入っていました。
後者は夏休み前の特集号で、小中どちらもカラー印刷。
今年度の教職員とPTA役員の紹介が、顔写真入りで載っていて、
社協の役員でもしていなければ目にすることもないだろう「今」の学校の様子を垣間見ることができました。

当然のことながら、小中学校とも、知っている先生はもうほとんどおられず、
学校の先生は旅人、という言葉を改めて思い出しました。

「期間限定のお付き合い」
年度年度入れ替わっていく子どもたち。
転勤で、いろんな学校を渡り歩いて行く先生たち。

ひとつひとつの出会いが、「ご縁」なんですよね。

自分の過去記事、別れの季節と絵本「ねずみとくじら」 でも、
「教師は旅人」という言葉を書いたことを見つけました。

忘れられない先生、というのは、良い場合も悪い場合もあります。
長い人生の中で、良い師、に出会えたら、さいわいなこと。
でも、そうでなくても、「学校」時代は長い人生のごく一時期で、いずれ過ぎ去っていくもの。

なんだか、今は、必死の思いで、親としてあれこれ学校に働きかけていた昔を、
夢のような気持ちで振り返ることができます。


届けられたPTAだよりを見て驚いたのは、
支援学級の担任と介助員の人数が、小学校も中学校も、昔と比べて倍以上になっていることでした。
親の集まりで、今の支援学級在籍人数が、私たちの頃の倍以上と聞いてびっくりしたのですが、
それはつまり、先生の数も同じく増えているということ。
なので、
学校の一般保護者の方たちにも、以前よりも「大きな存在」として、
「支援学級」を目にする機会が増えているのではないかなあ。

そして、これだけ規模が大きくなってくると、
先生とも、他の子どもや親とも、
きっと、いろんな出会いや別れがあるだろうな。

今まさに学校時代を過ごしている若いママさんや後輩当事者のために、
この冬、ナカリが自分の体験談を文章とイラストにして伝える予定だけど、
その時に、少しでも後輩たちの肩の力が抜けるような形で伝えられたらいいなあ・・・

あんまり先の心配をし過ぎないで、大丈夫、何とかなるよ。
その時その時ベストと思って必死に取り組んでも、結果につながるかはわからない、
でも、振り返ったら、それもやっぱり一つの過程として今に繋がっている、
だから、
自分の勘と、子どもへの愛、とを頼りに、嵐の思春期を抜けるまで、がんばって。
(かつ、がんばりすぎないで)

秋が来たら、腰を据えて、学校時代の体験談作成、に取り組まなきゃ。
後悔したり、再度苦しんだりすることなく、
ナカリと一緒に前に踏み出すための、振り返り作業、になりますように。



パソコンからなので、久しぶりにyoutubeを貼ってみます。
ナカリと同じく小学校高学年から「学校」と距離を置いていた息子が、
自宅に帰って弾いてくれているピアノ。
ギボンズのイタリアングラウンド(グールド演奏)







思い出 | 11:23:36 | トラックバック(0) | コメント(6)
樹のいのち
ご訪問ありがとうございます。

庭のアジサイの花が、かわいそうな姿になってきたので、
剪定していたら、その後ろに、姫リンゴが成っているのを発見しました。
姫リンゴ IMG_0210

白い花を咲かせてくれているのに気づいたことはありましたが、
残念ながら今まで実を見た覚えがありません。
去年は花が咲く前に、
夫がそうと知らずに(雑木だと思って)バッサリ切ってしまったので、
今年はそっとしておいて、と言っていたら、
いつの間にか実をつけていました。

小さいけれど、リンゴの形をしています。
奥のは分かりにくいけれど、手前のと合わせて2個!
昔、両親が孫育ての手伝いに来てくれていた頃に、苗を植えてくれた樹です。
ちょうどふたつなので、父と母のリンゴのような気がして嬉しくなりました。
これから秋にかけて、赤く色づいていくのが楽しみです。
初めて、自家製の果物を食べられるかな?


それから、
お隣の家の百日紅が種を飛ばして我が家の庭で芽を出した苗が、
年々大きくなって花をつけるようになり、
今年は、もともと植えていたハナミズキの背丈に追いつく勢いです。

種をくれたお隣の百日紅は、去年、壁の改修工事の際に伐採されてしまいましたが、
場所を変えて、新しいいのちとして育ってくれています。
百日紅IMG_0213

親の木、が無くなった今年、
夏空に伸びていく百日紅の可愛い花々に、
何だか感慨深い思いがしています。

人間の命は、がんばっても125歳くらいが限界らしいですが、
樹は、場合によっては100年、もっとかな?
そうだ、屋久島の杉とか1000年以上のもありますよね。
・・・ちょっと調べたら、縄文杉は樹齢6000年ですって!?
その縄文杉(ウィキペディアより)
縄文杉

うちの姫リンゴや百日紅と並べるなんておこがましいけど(^-^;)
同じ、樹のいのちとして、ともに「今」を生きているかと思うと、
ちょっと載せてみたくなってしまったので・・・

うちは、ありがたいことに里山にも近く、
畑や田んぼや果樹園など、緑が身近にたくさんあります。
その中には、市の保護樹木(看板が掛けてあるもの)もあります。
思い立ったので、市のHPで調べてみたら、
「保護樹林・保護樹木マップ」が載っていて、
近所にあるのは、シラカシとクロガネモチだと分かりました。
でも、樹齢までは書いてないので分かりません。
何歳なんだろう?


息子は小学校不登校の頃、
近所を散歩しながら歴史モノをたどるのも好きで、
旧街道沿いに「道しるべ」や「庚申塔」を見つけ、
「一本杉」という看板には、
<昔は朝日が昇ると隣の村まで影が届く、と自慢されていた>と書いてあった、
とか、
住んで何年もたちながら大人の私も知らなかったことまで教えてくれて、驚いたものです。

※ なお、庚申塔(こうしんとう)というのは、
  「中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと」
  ・・・(ウィキペディア)だそうです。
  息子に教えられるまで、その言葉も、近所にあることも、全然知りませんでした。



話、それてしまいましたね(汗)。

人のいのちから、樹のいのちに思いを馳せて、
「木を植えた男」という絵本のことまで思いだしたら、
何だか、寂しい気持ちが薄らいで、
おだやかで、気長な?気持ちになることができたので、
その目線で、思わず、
ひとの歴史、町や村の歴史、にまで気持ちが「飛んで」いきました。
目をつむると、小さい頃の子どもたち、元気だったころの両親、が浮かんできます。


姫リンゴ発見、が、ちょっとしたプレゼントを運んでくれた感じです。
しあわせな日曜日のひと時に感謝でした。




思い出 | 16:14:15 | トラックバック(0) | コメント(9)
小学生の娘に、自分の障がいと向き合うよう求めて、良かったのか…
ご訪問ありがとうございます。

ご縁があって、
娘に、自分の小学校(中学校)時代のことを書いてもらう話が進んでいます。

<自分の障がいについてどう向き合ってきたか、どんな体験をしたか、どう思った(乗り越えた)か>

後輩小学生の保護者の方々が、
「当事者の話を聞きたい、思いを知りたい」と、
自分の体験や思いを話せる先輩を探しておられる、と知ったからです。

事情を伺うと、
ある療育施設の勉強会で、子どもの当事者さんから、
自分自身がパニックになる時の様子を、
「お湯が沸騰してお鍋の蓋が飛ぶ感じ」といった表現で聞く機会があったそうで、
そんな風に、子ども本人の気持ちを具体的に知りたい、学びたい、
・・・と、出てきた話だそうです。

その話を聞いた私は、
先輩保護者として、協力できるなら力になりたい、と、
自分から進んで娘に働きかけてみました。
私が引っ張ったら、娘は嫌と言えない、と、分かりながら・・・です。

くれぐれも無理はしないでくださいね、と後輩ママも言ってくださったし、
「無理強い」したつもりはないし、
昔「Watashi」という冊子を作った際にも、
似た立場の人の力になりたい、理解を広げるために発信したい、
という思いが、本人にもあったので、
これもいい機会かな、と思ってのことでした…

が、
結局、
過去と向き合う作業は、簡単ではないと分かりつつ、
私自身も娘の気持ちを再度確認したい、その作業を一緒にしたい、という気持ちで、
まず先に引き受けてから、娘を「説得」した形、になりました。

ただ、
ナカリの場合、直接話すのは難しいので、
文章だけ届ける形にして、
自分の言葉で話せるよ、という友達にナカリの分も代読してもらうよう、お願いしています。

まだまだ先の話なんですが・・・

そのとき、に向けて、
少しずつ、私からナカリに昔の思い出を尋ねながら、
準備を始めました。




振り返ると、
ナカリに、
「あなたは自閉症なんだよ」
ということを伝えたのは小学4年生ごろなのですが、
彼女の中で、それがどんな風に「消化」されていったのか、
今になって、
「本人告知」を焦った自分の失敗だったんじゃないか、とか、
いや、
過去を変えることは出来ないんだから、あれはあれで良かったんだ、とか、
ナカリに尋ねながら、
自分自身の心が揺れ動いています。


当時、私は、親として、
我が子に対して、
いわゆる「障がい受容」というものを、
かなり意識的、積極的に求めようとしていました。

大人の発達障がいが注目され、
当事者からの発信も増えはじめ、
「本人告知」がプラスになる、という事例も聞こえ始めた頃でした。
告知関連の書籍も出版され、
子どもの本人向け書籍、も見かけるようになっていました。

ナカリが通う小学校でも、自閉症児のお母さんから、
「じへいしょう」って、どんな障がいか、を学校全体で(低学年、高学年に分けて)聞いて、
家で親子で話し合う、という企画があり、
NHKの番組でも、
佐賀や東京での取り組み(クラスの子へのカミングアウト)が紹介されたりしていたので、
それを親子で一緒に見ながら、本人に「あなたもそうだよ」と説明したのです。

※ こう書いたら、
  ADHDだと告白したモデルの栗原類さんが、
  子どもの頃、アニメを見た時に、お母さんから
  「あなたはあのキャラクター(忘れん坊)と一緒なんだよ」と説明された、
  という話と重なる気もしてきました。


そうやって、障がいについて話をした時点では、
ナカリは「自閉症」を、悪いこと、とはとらえていませんでした。
教室を抜けて、支援学級で勉強することも、
「がんばるから応援してね」と、イラストを描いて、
クラスの保護者向けに配ろうとしたこともありました。
(この時のことは過去記事に書きました)

でも、結果的に、
「私は自閉症だから、云々(マイナスのことが起こる、等)」
といった発想パターンを作り上げてしまったのではないか、
…という後悔もあります。


「たら、れば、話」は建設的でないですが、
もしも、
こうしたことを一切しないで、
「障がい」という話題を極力避けて、
本人から何か聞かれても、すっとぼけて、
知らん顔して「普通に」過ごすように誘導していたら…。


うーん。

それでも、
「自分だけ周りと何か違う」という気づきの時は、きっと訪れたろうから、
やっぱり、何らかの説明は、どこかの時点で必須だっただろうなあ。

なんにしても、「正解」はない。

そのときそのとき、
できるだけ、子どもにとって良いと思えることをやってきた。
それだけ、なんだけど。

正しかったのか?良かったのか?
と、自分に問いかけてしまう自分がいて、
しばらくは、気持ちの揺れが続きそうです。


保護者が「我が子の障がいを受容する」のと、
子ども自身が「自分のこととして受容する」のとは違うんだ、
ということについて、
まだ若かった自分は、あまり深く考えられていなかった気がします。
不必要なくらいに、深く踏み込み過ぎていたかも…。

障がいと向き合う・・・なんて、
とても一言では語りきれないよね。
おっきな問題を、小さな頃から突きつけてしまって、ごめん、ナカリ。



ちょっと、まとまらないままダラダラと書き綴ってしまいました。
すみません。
これ、しばらく継続課題です。

後輩のためにも、自分たち親子のこれからもためにも、
ゆっくり、じっくり、考えてみたいと思っています。

今日のところは、とりあえずの途中経過報告、です。
長々と読んでくださって、ありがとうございました。




思い出 | 00:18:30 | トラックバック(0) | コメント(11)
昨日は亡き母の誕生日、1年前のブログに胸が痛む
ご訪問ありがとうございます。

母が生きていたら、昨日で81歳になるはずでした。
母が尊敬していた日野原先生が、母の誕生日に逝かれた、ということ、
なんだか感慨深いです。

亡くなったところで、年齢は止まるんですね。
これもまた、不思議な気持ちです。
私は、いつか母の年齢に追いつけるだろうか。
それは、誰にもわからないこと。
だから、誕生日は、いつが最後になるか、分かりません…ね。


で、いくら思いだそうとしても、1年前に、母の誕生日を祝った記憶が無くて…
念のためにブログを確認したら、
前日の夜に、難しい電話がかかってきて、うっとおしがっていた自分が居ました。

親の老いは悲しい

ああ、この頃すでに、認知症が進み始めていて、
電話でのやりとりにも問題が生じていたんだな。
誕生日だという自覚のもとに、きちんと「おめでとう」を伝えた記憶が無いので、
もしかしたら、去年はそのことをスル―してしまっていたかもしれない…

その後、11月3日、義父が亡くなった日に、母も救急入院したので、
万一を覚悟して娘を連れて帰省したけれど、
その後持ち直して、病院からホームへ。
結局、年が明けて2月に再度救急で入院してからは、
もう言葉も交わせないまま亡くなりました。

だから去年が、最期の誕生日だったのに。

ごめんね、お母さん。

母の認知症、という現実と向き合ったのは、期間としては短かったけれど、
私の記憶の中では、最後の方の母は、母であって母でなくなっていっていたので、
きちんとゆっくりあたたかい気持ちで向き合うことができないままだった、と、
後悔ばかりが胸を締め付けます。

子どもの頃から、いつ、母にその日が訪れるか分からない、と、
覚悟し続けていたはずなのに、
過ぎてみたら、油断がいっぱいでした。

日野原先生のように、死期を悟って、悔いのないよう、まわりの人に言葉をかけて…
そんな最期を迎えるのは、なかなか難しいことだ、と、しみじみ思った昨日です。


昨日は、母の誕生日について、叔父とメールをやりとり。
母が病院から少しの間だけ「家」に戻ったのは、自宅ではなく、叔父の住む「母の実家」でした。
母が寝泊まりしていた部屋に、ピンクのユリを飾ってくれている写真が送られてきて、感謝でした。
私よりも、弟のおじの方が、ずっと近くに居て、母の支えになっていてくれたんだと、
申し訳ない気持ちも半分・・・。

何度か書いているように、母との最後の会話は、ナカリのカウンセリングに向かう途中、
バス停と、電車の駅ホームでのわずかなやりとり。
「ナカリをほめてやるんよ」が、母からのラストメッセージでした。

その言葉のとおり、昨日は、孫ふたりとも、楽しく過ごせて、私は、ほめることばかり。
良い報告ができた一日でした。

今日、息子は下宿に戻っていき、
ナカリと私はお友達のお母さんにプールとランチに連れて行ってもらいました。

こんなに穏やかに過ごせていていいんだろうか、と思いながら、
両親の居ない毎日を、私は無事に生かされています。

さて…
来月には、家族4人全員で、無人の実家を見に行きます。
親二人の暮らした家を、どう後片付けするのか。
夫にも相談に乗ってもらいながら、少しでも先に進まないと。


母は、クラシックが大好きでしたが、私が好きな洋楽も聴いてくれていました。
今回、息子が弾いていた曲の中に、ゲーム?アニメ?の曲があり、
私はそれを理解しようと、楽譜のタイトルからネット検索して、
息子の別の側面を見つけてしまった気持ちです。
なんか良い曲だねーと言ったものの、ゲームそのものは全然知らないので、
それ以上には、話を合わせられないです(^-^;)
「東方」のゲームも然り。(こちらの音楽は、むしろナカリの方が食いつきが良かった?)

まあ、いいや、詳しいことは知らないけど、曲はいいなと思えたのだから。
「おばあちゃん、孫はこんなのも弾いてるよ、聴いてやってね」

元気だった頃の母なら、きっと、曲名をメモして覚えようとしただろうなあ(笑)


いりす症候群 着信ゼロ





思い出 | 21:21:43 | トラックバック(0) | コメント(9)
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