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ナカリママ

Author:ナカリママ
「無事にね!」は下の子どもの口癖です。その本人のホームページとリンクしています。一般的には子育てを終えている年齢ですが、まだまだ当事者である子ども達から学ぶことばかりの毎日です。

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「お母さんは死なないもん」 毎日新聞「卒母のススメ」より
ご訪問ありがとうございます。

昨日出勤した際、夫が毎日新聞を机に置いてくれていました。
今回の「卒母のススメ」
3本目の投稿は、熊本市の69歳のお母さん。
末っ子の28歳の娘さんに知的障がいがあり、
「一日たりとも1人にすることはできない」とのこと。
そのお母さんが、時々、娘さんに「お母さんが死んだらどうする」と問うと、
答えは決まって「お母さんは死なないもん」・・・だそうです。
<娘と一日違いで旅立つ――それが私の理想の卒母である>
という一文で、締めくくられていた投稿を読んで、
69歳にして、すごい覚悟!と、背筋が伸びました。

私自身、現在のところは大きな持病を抱えている訳でもなく、
更年期の服薬も終わり、抗不安薬を減薬、断薬しようと試行錯誤中、
不眠はなかなか治りませんが、がんばって健康を維持しないと。

ナカリの方から
「お母さんが死んだらどうしよう」
という不安が口をついて出ることがしばしばあり、
そういう不安を子どもに抱かせないのが親の頑張りどころ、と、
気を引き締め直しているところです。

28歳の娘さんが、安心して「お母さんは死なないもん」と毎回答えられる・・・
なんてすごいことだろう!
あと10年くらい先に、ナカリがそんな気持ちでいられますように。


息子の風邪がようやく治まってきて、今朝病院で薬をもらったので、
このあと下宿に帰る予定です。
今、久しぶりにピアノを弾いています。

今回長い帰省になったので、帰るとなると、やっぱり寂しい。
お盆明けのニュース。
帰省ラッシュの駅や空港で、祖父母と別れる孫が泣いていたり、
祖父母の側も「やっぱり寂しいですね」とインタビューに答えていたり、
そんなシーンを思い出しながら、
胸がキュンとします。

平常心、平常心。

昔、
「亭主元気で留守がいい」
というコピーが話題になったと思います。
それとはちょっと意味は違う感じではあるけれど、
親も、子どもに心配かけず元気で、一歩離れて見守っている、くらいでいられたらいいなあ。
子どもの方も、親に心配かけず元気で、しっかり日々を過ごしてくれますように。


息子が弾いてくれた
ギボンズ「ソウルズベリー候のパヴァ-ヌ」
彼が帰った後も、ユーチューブで聴けることに感謝です。


今日も暑くなりそう。
あと少し、夏を乗り切って、がんばろう!




読んだ本・文章、見た映画・ドラマ、聴いた音楽 | 10:35:06 | トラックバック(0) | コメント(0)
外部からの刺激を遮断するツール~帽子とサングラスとイヤホン
ご訪問ありがとうございます。

今日はナカリと二人でバスに乗って、先生のアトリエまで出かけました。
暑い暑い直射日光の中、帽子は必須ですが、さらにサングラスも加えて、
いつものようにiPodをイヤホンで聴き、
視覚と聴覚を守りながら往復しました。

実は今朝、
出勤する夫から、「リタリコ発達ナビで、自閉症の視覚体験シュミレーターを見たよ」と聞き、
「人ごみに入ると、光がちらちらして苦しいのがよく分かった」とのことで、
早速検索。
ユーチューブにも挙がっていたので、貼ってみます。



確かに、これはしんどいだろうな。
(リタリコの記事は 自閉症を体験できる?阪大と東大が開発中の「自閉症知覚シミュレータ」がすごい )

ただ、娘の場合、振り返ると、
幼い頃はかなりの過敏性でパニックも頻発でしたが、
保育所時代から集団に慣れ、積極的に人に関わろうとし、
小学校ごろにはディズニーランドも大丈夫なくらいに落ち着いていたのが、
中学でのいじめ目撃体験に傷ついて、高校で通学途中の舌打ちに驚いて、
すっかり人混みが怖くなってしまったので、
自閉症によるもの、というより、2次的な感覚過敏も大きいのではないかと思います。

見え方も、これほどのチカチカではないような…。
実際、娘にもこの映像を見てもらったら、
「チカチカはしないけど、こんな感じ、分かる」とのこと。
とにかく、
人混みの中で私が感じるストレスと娘が感じるストレスの大きさは、比べ物にならない、
と再認識しました。
記事の中に、
必要なのは「大丈夫だよ」という言葉かけではなく、
 帽子を目深にかぶらせて目から入る情報を減らし、耳を塞いで刺激を遮断してあげることだった

という文章を見て、納得。

私は盲導犬のように寄り添って、一緒にバスに乗った次第です。

アトリエで2時間、よく集中して頑張った後、帰りのバスもクリア。
いっぱいほめて、帰宅後は休ませました。

おつかれさま。

今週は、もう一度、遠方の病院まで一緒に出かける予定なので、
次もきっちりガードして臨みたいです。

自宅での情報遮断として、二人の間はテレビ断ちしていましたが、
この間、結構テレビをつけてしまっているので、
私が席を外すと、ナカリは自分でテレビのスイッチオフ、を繰り返しています。
オフできない時には自分から、別の部屋に避難しています。
ごめんね、こちらが合わせないとね。

「外の世界の情報」が、フィルターなしに侵入してきてしまう辛さ、を想像しながら、
安心できる環境を整えるように心がけたいです。
夫からの情報に感謝でした。



子どもの日常 | 22:23:48 | トラックバック(0) | コメント(6)
故郷の花火大会と、「シュレーディンガー」のつづき
ご訪問ありがとうございます。
今日も暑い一日でした。ご無事に過ごされましたでしょうか。

夕方から夜にかけて、瀕死のセミたちの鳴き声が続いています。

今日は、台風で延期になっていた花火大会が、母の実家近くで無事、開催されたそうです。
昨年の花火大会の日、
外泊中の母を車いすで港沿いの端まで一緒に連れて行ってくれた叔父が、
「早くも1年がたちました」と、メールで写真を送ってきてくれました。

花火大会1

花火大会2

花火大会3

港町の花火なので、海に映って大きな花火が二つずつ。
去年はこれを、叔父と一緒に母が見たんだなあと思うと、感慨深い気持ちでした。
こんなきれいな花火を近くで見れて良かったね、お母さん。
この想いを何か記録に残しておきたくて、記事にしています。

もうすぐ、亡くなって半年。
天命だから、息子のピアノを聴きながらだったから、悔いることは無い、と思いながら、
息が止まるまでの一部始終を目に焼き付けるように凝視していて、
手を握ることを忘れていた、見ているだけだった、ということに、後から気がついて、
父の最期には母が手を握りながら賛美歌を歌ってあげていたことを思い出し、
あの時、ぎゅっと手を握りしめていてあげたら良かった、と、振り返ってしまいます。
でも、しかたのないこと。
ちゃんと看取れただけでもありがたかった。
悲しみと向き合う経験をくれたこと、母からの最後の贈り物としてしっかり受け止めておきたい。

以前、息子が「一番悲しいのは、自分の母親が亡くなる時だと思う」ということを言ってくれて、
親としてありがたく、また、でも、いずれその時を迎えないといけないから、
(順番を違える方が、耐えられないと思うから)
後に遺された気持ちの整理をがんばってほしいと願うばかり。


…そんな気持ちで読み進んでいる「シュレーディンガーの猫を追って」
昨日につづいて、抜き書きします。
故郷の花火の写真が、本の文章が、思い出を改めて心に刻み込んでくれる、
そんな気がしている夜です。


>大いなる喪の悲しみが輝くように炸裂する。
 世界にその光を広げる青空のなかで。

 ・・・

 恍惚のようなもの。
 破廉恥でぞっとする。
 どん底に落ち、すべてを失った感覚を知らなければ、そして完全にからっぽになった世界のなかですっかり自由になったという感覚を知らなければ、理解できないだろう。
 浮揚しなければならない。
 足もとの地面は崩れ去り、当てにできるものはもう何もない。

 ・・・

 あの子が亡くなって、世界はその中心を失ってしまった。
 腹に穿たれた穴。
 胸にある一種の裂け目。
 そこから見えたのは虚無だけだった。
 彼女の不在によって残された空間には、一度も目にしたことがないような驚くべき白昼の光景が広がっていた。
 悲痛な思いのせいで、わたしたちは惚けた状態で何もできず、ただ目を見開いてそれを見つめていただけだった。
 事物の愚かしいまでの美しさを、茫然自失して見つめていた。
 天空を経めぐる太陽の動き。
 暗闇にじわりと滲み出る月と星々。
 そして、もはや理にかなった何かを語りかけることもないままに、わたしたちに向けて同じような徴を送り込んでくる生。
 まるで、彼女が逝ったことで、一陣の突風がすべてを吹き飛ばし、生きることの偽りの外観を彼方へと一掃したかのようだ。
 そして、身体に心地のよい風が、わたしたちのほうへと無数の微小な現象を追い立て、やむをえずわたしたちは、その恍惚とした観察者になったかのようだった。

 ・・・

 死んでいるのか、生きているのか?

 わたしは完璧な物語を知っている。
 思うに、シュレーディンガーが着想した思考実験をもっとも見事に物語化したものだ。
 現実には対照的なふたつの状態があり、どちらも観察の仕方次第で存在が決定されるとして、わたしの知る物語は、あたかもそのふたつが重なり合っているかのようにして世界を明らかにしてくれる。
 それは、わたしの人生のもっとも正確な寓話でもある。
 どうして今頃になってそれを思い出したのだろう。


心の内を文章にする、その営みが、ひとつの喪の行為なんだな、と、
しみじみしました。
書き写しながら、
時と場所を超えて、一緒に「彼女」の存在を偲ぶ気持ちになり、
そこに母も重ねて、後悔を洗い流し、これからさきの物語をつくっていこう、と思いました。

読んでくださってありがとうございました。









思い出 | 22:51:09 | トラックバック(0) | コメント(2)
「シュレーディンガーの猫を追って」と、バッハ・のパルティ-タ
ご訪問ありがとうございます。

息子の風邪が長引いています。
予定外の長期帰省となり、月末締め切りの仕事や、原稿チェックのメールが入るたび、
少しずつ焦り始めている様子ですが、
考えてると余計に治らないから、今は頭を休ませて、と、言い聞かせています。

夕食後、久しぶりに一緒にバッハを聴くことも出来て、
母としては、ありがたい時間。
聴いたCDは、セルゲイ・シェプキンが弾くバッハ「パルティ-タ1~4番」

聴きながら、
風邪をひく前に息子に買ってきてもらった「シュレーディンガーの猫を追って」(河出書房新社)のページをめくりました。
新聞の書評で見て、読みたくなり、本屋に行くという息子に頼んだものです。
フランス文学の棚にあったそうですが、哲学的な文章で、難解です。
でも、不思議と魅力的。
これ、原語で読めたらどんなに素敵かなあ…。

著者のフィリップ・フォレスト氏は、4歳の愛娘を病で失くしてから作家になったとのこと。


>質問するのはいつも子どもたちだ。
 大人はみな、答えなどないと言い放って投げ出してしまう。
 例外は、哲学者、学者、詩人だ。
 赤子と同じくらい無防備な彼らは、赤子とほとんど同じ結論―あるいは結論の欠落―にたどり着く。
 
 「前はどこにいるの?」
 「生まれる前かい?」
 「うん」
 「ママのおなかのなかさ」
 「それは知ってるわ」
 「そうか」
 「みんなそうなの?」
 「ああ、みんなそうだ」
 「でも、前は?」
 「何の前だい?」
 「もっとずっと前」

 ・・・

 「じゃあ、人間よりも前は?」
 「人間より前の地球には動物たちがいた。
  それから、動物だけじゃなくて、いまぼくらが知っているものがぜんぶあった。
  海、山、森、河、それにお花。
  上を見上げれば、空と雲。
  もっと遠くには、太陽、月、たくさんの星々」
 「じゃあ、もっと前は?」
 「もっと前?」
 「うん、地球とか太陽とか月とか、空にあるほかの星より前は?」
 「その前はわからない。
  もし何かがあったとしても、それを見られるひとは誰もいなかった」
 
 ・・・

 「じゃあ、ほんとうの始まりには?」
 「なんにもなかった。真っ暗闇みたいに」
 「ずっと?」
 「すごく長いあいだね。
  太陽もなかったから、日も数えられなかった。
  まるで時間が動き出していなかったみたいだった」
 「どこで?」
 「どこでもあるし、どこでもない。
  大きな虚空。なかには何もない宇宙だ」

 ・・・

 「ずっと前に死んでしまったのに、いまも光が見えるの?」
 「誰のことだい?」
 「お星さまよ。そう言ったでしょ?」
 「そうだね」
 「死ぬって、暗闇のなかで眠るみたいなことだと思っていたわ」
 「ああ、そうだね、きっと」
 「でも悪夢は見ない?」
 「ああ、悪夢は見ない」
 「それでどうなるの?」
 「死んだひとは暗闇のなかで眠る。
  でも他のひとたちは、彼らが残す光を見つづけるんだ」
 「ずっと?」
 「光が虚空を旅しているあいだ、そして、その光が通ってゆく空をどこかで誰かが眺めているあいだはね」
 「じゃあ、けっして終わりはないのね」
 「ああ、ある意味では、けっして終わりはない」


まだ理解しやすかった部分を抜き書きしました。
今年母を看取ってから、何かにつけて「死」について考える著作を読みたくなり、
今回もその流れで手に取った本ですが、この文章に深く揺さぶられました。
「終わりはない」
そうだなあ。
そう思うことで、未来に繋がっていく。
希望をもち続けていられる。

バッハを聴きながら、胸いっぱいになった夜でした。
検索して出てきたのは、やっぱりグールドです。
1番、3番だけですが、貼っておきます。



本は、まだまだ読み終われそうにありません。
この夏のいろんな思い出と一緒に、心にしっかりしまい込めるように、丁寧に読みたいです。



読んだ本・文章、見た映画・ドラマ、聴いた音楽 | 22:33:08 | トラックバック(0) | コメント(4)
図書館での当事者会
ご訪問ありがとうございます。

昨日の当事者会は、場所が市立図書館でした。
曇り空の下、ナカリとウォーキングで20分余り、
集合時間から少し遅れて到着したけれど、誰もいなくてどうしようか・・・
とりあえず中に入ってみると、久しぶりの中央図書館はリニューアルされていてビックリ。

隅っこの席を確保してナカリを座らせ、
私だけ入口周辺をウロウロ。
すると、入り口近くの席に見覚えのある方が一人。
「○○さんですか?」とお声をかけると、はい!と笑顔。
皆さんまだですね~、相談機関に集まってそこから車で来られる人たちもいるからまだまだですよー、
と、何回かこの場で集まったことがあるような先輩の言葉に安心して、
奥の方にいますからと声をかけ、ナカリを連れて本棚を見て回りました。

美術の棚から何冊か選んで、椅子の方へ。
机も空いたので、座って模写を始めました。
特に気に入ったのが、ナカリが2歳の時に出版された古いイラスト集。
ポーズイラスト表紙

紙を載せて模写しながら、パラレルワールドのキャラクターに変身させて、
黙々と描きました。
その間に、お母さんが送って来られた方が一人、
相談機関から到着したスタッフさんと当事者さんたち、が集まり、
皆さんで「じゃあ、最後に集まる時間だけ決めましょうか」と、
40分後くらいに時間を決めて、各自、本棚へ。
私も1冊選んで、ナカリのもとへ。

静かな時間。

久しぶりの図書館でした。
ナカリは結局3冊借りることにして、
最後の集合時間にみんなと顔だけあわせて、
次回はVTRを観ましょう、何がいいですか?
手話とかいいかな、当事者さんの話も聞きたいな、という話だけして解散。

ただそれだけ、の集まりでしたが、
少しずつ顔見知りになれて、好きなイラストも描けて満足して帰宅できたナカリです。
ほんとに、ちょっとずつ。
話せるようになるまでの長い時間を、こうやって積み重ねていくんだな、と思いながら、
こうした「場」があることに感謝でした。

ナカリの模写を3枚アップしますね。
ポーズ模写1

ポーズ模写2

ポーズ模写3

ちょっとレトロな感じのイラスト集でした。
カゲウラさんファミリーに、ほのぼのした私です。
ナカリの頭の中で、こんな世界が広がってるんだなあ。


息子の方は風邪が長引いて、引き続き、寝て過ごしています。
芯が弱いので、いったん体調を崩すとなかなか回復しなくて本人も辛そう。
まあでも、諦めて、寝てるしかないですね。
世話をできるのもまた、母親の時間。大事にしたいです。
いのちの心配さえなければ、休んでいてくれることもありがたい気持ちです。

何でもない日常の話を読んでくださって、ありがとうございました。





子どもの日常 | 13:14:12 | トラックバック(0) | コメント(6)
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